ヤクザと家族The Familyの感想文
「ヤクザと家族 TheFamily」を見た。
もう2日経つのに、一向に映画の世界から帰ってこられないので、読書感想文ならぬ映画感想文を書くことにした。
夏休みの宿題クオリティなので、そこは期待しないでくれ。
映画を見てから、ふとした瞬間に映画のこと、ヤクザのことを考えてしまう。
これはやばい。
どれくらいヤバいかというと、仕事中に「ヤクザ」「暴力団」を検索してwikiを読み耽るのは序の口で、仲良く談笑しているおっさんず(上司)の輪に「私、昨日ヤクザと家族という映画を見ましてね」と割り込んでいきたくなる衝動に度々駆られるくらいには、ヤバい。
ちなみに会社ではプライベートのことはほとんど明かさず、会話も最小限の謎の女で通っている(つもり)の私が、だぞ。それくらい、とにかくヤバい。
なぜこんなにも「ヤクザと家族」を引きずっているのかというと、この映画が「私の中のヤクザ」という幻想をボッコボコにぶち壊してくださったからである。
ところで、あなたはヤクザと言ったらどんなものを想像しますか?
暴力に躊躇がなく、悪いことに手を染めていて、金回りがよく、かっこいい車に乗っている。そんな感じじゃないですか?
私はそうでした。
いろんな漫画や小説に出てくるヤクザはいつだってそうだった。
シャブやチャカや殺しが身近で、裏世界の住人。人々に畏怖される存在。
現実では絶対に関わりたくないけれど、そのアウトレイジでアウトローな感じがかっこよくて、憧れた。
だけど、ヤクザがステータスだった時代はいつの間にか終わっていた。
知らない間に、終わってた。
私の持つヤクザのイメージは一昔前のヤクザで、令和の時代のヤクザは迫害され生きるのに必死だ。
「ヤクザ」というステータスは、憧れどころかデメリットでしかなくなっていた。
私の幻想の中のヤクザは、今の時代にはもうどこにもいないのだ。
考えてみると、そもそも私はヤクザの事をロクに知らない。
「ヤクザ」「暴力団」「反社会的勢力」「極道」、よく耳にする言葉だ。
だけど誰がなんの為に使い分けているのか?
そもそも、それらが同じものを指しているのかすら曖昧だった。
Wikiで得た知識を披露すると、それらは皆同じ組織を指している。
「暴力団」は警察が作った呼び名で、「極道」は組員が自らを表すときに使う呼称。「ヤクザ」の語源は諸説あるが、江戸時代頃からあった言葉らしい。
ヤクザは何をして稼ぎ生きているのか、どんな組織なのか。
ただの悪い奴とヤクザの違いは何か、何を持って「ヤクザ」となるのか。
改めて考えてみると、何も知らなすぎた。
知らなすぎたので、「暴力団排除条例」なんて条例の存在も知らなかった。
なんと、この条例のおかげで、今のヤクザはあらゆる契約ができないのだ。
契約を結ぶ際「自分が反社会的勢力ではない」という念書を必ず書かなくてはならなくなり、偽ると詐欺罪で逮捕され、認めれば契約を拒否される。
よって今のヤクザは、家を買うことも、ローンを組むことも、クレジットカードの登録も、携帯電話を買う事すら自由にできない。
今の時代、それらができないと言うことは、生きる事を否定されているのと同義ではないでしょうか?
けれど、条例という公の形で、それをヤクザに科す事を認めている。
もはやヤクザに人権は必要ないって国が言っている訳なんですよ。
平和な時代に生まれたものだから、それはそれでどうなのでしょうかと思ってしまうが、そうでもしないとヤクザを壊滅させる事は不可能なんだろうなあ。
ヤクザという負の存在を徹底的に世の中から排除してくれようとする政府と警察への信頼&感謝の気持ちと、ヤクザという文化が衰退していく寂しさが私の中で戦っている。
話を戻すと、「ヤクザと家族 The Family」はヤクザの山本賢治を通して3つの時代を描いている。
1999年、2005年、2019年。
1999年に親分と出会ってヤクザになり、2005年に逮捕され、14年の刑期を終えて出てきたら全てが変わっていた。
2005年はまだまだヤクザが幅を利かせていて、街でも権力を持っていて、金回りもよかった。望みはなんでも叶った。この時代は、私のイメージするヤクザそのものだった。
そんな年に組同士の揉め事により殺人で逮捕され、14年後へ浦島太郎。
立派だったはずの柴咲組事務所は寂れているし、組員は自分を入れて5人しかいないし、尊敬していた親分は病気で酷く弱々しくなっている。
もうこの辺りの描写が辛くて辛くて。
賢治は「組を頼む」と若頭に全てを託して逮捕されたのに、この有様。
舎弟だった細野(市原隼人)も組を辞めていた。
そして、柴咲組が、ヤクザが、今どんな境遇に立たされているかを知る。
賢治の外での記憶は贅沢で華やかだったあの時代で途切れていて、次に外で見るのがこの惨めな現状。幹部ですら夜中に海に入って密漁したり、手を出さないはずだったシャブの売買に手を染めていた。どうにか組を存続させ、生きる為に。
誇りもクソもあったもんじゃない。
かっこよくて憧れだった大人たちのそんな姿、どんなに惨めに映っただろうね。
あまりに辛い。
真っ当な人生を歩むべく、ヤクザを辞めた細野の選んだ道も決して楽ではない。
ヤクザを辞めても、事あるごとに重くのしかかる5年ルール。
5年はまともに働けないし、人間として見てもらえない。
5年が過ぎても、ヤクザだった過去が事あるごとにマイナスに作用する。
ヤクザだった人間は、一生重しを背負い続けなければならないのだ。
みんなヤクザであることが誇りだったはずなのに、状況が変わっていくうちに、ヤクザでさえなければ、ヤクザにさえならなければ、と何度も考えたんだろうなと思うと、もう辛くてどうしていいかわからなくなる。
幸せだったあの頃まで否定して欲しくないのに、否定する気持ちも死ぬほどわかる。
そして刑務所から出てきたばかりの賢治に、それを突きつける残酷さがもう、もう。
藤井監督、天才・・・。
無理矢理のハッピーエンドも、過剰演出もなかった。
舞台装置としての人間もいなかった。
登場人物全員が、それぞれ必死に生き、足掻く姿を見せてもらった。
その姿が余りに、受け止めるには余りに重くて、だからずっと映画の世界から帰ってこられなくなってしまった。
映画になっていない部分のことについて、想像する。
賢治の刑務所での時間、柴咲組が衰退していく様子、賢治のいない間に親分、細野、中村、ユカがどんな風に何を思い生きていたか。
親分が倒れた時、細野が組を抜ける時、シャブを売る決断をした時。
見てみたかった。
組を抜ける時って普通ならケジメをつけなければいけないんだと思うんだけど、あれだけ大量に人が辞めているとなると、きっとある時点から去る者は追わず状態だったと思うんだよね。その決断イコール、柴咲組存続への諦めだったと思うので、その絶望の瞬間が見たい。(悪趣味)
ヤクザと家族、すごくいい映画です。
まだまだ帰って来れそうにない。